「川越菓子屋横丁の形成」・・・女子栄養大学 文化学研究室 松平 誠 著より

池袋から私鉄東武東上線の急行で西北へ30分。埼玉県川越市元町2丁目には珍しい街が残っている。名付けて「川越菓子屋横丁」。その名のとおり、駄菓子屋が集まって横丁をつくっている。明治期にはじまり、大正末から昭和初年には、養寿院門前とその周辺にあわせて70余件の駄菓子屋職人が軒を並べ、一時は関東随一の繁栄を誇ったという。もっともいまでは10軒そこそこが、せまい道の両側に残るばかりだが、近来は川越観光の目玉になり、休日ともなれば押すな押すなの人並みとなる。

その発端---鈴木藤左衛門(1841~1893)の登場

菓子屋横丁ができる前にも、同じ町内の大連寺横丁や隣町の石原などには、早くから駄菓子の業者が散在していたらしい。鈴木藤左衛門もそのひとりで、川越本町から横丁菓子屋に移り住んで「松本屋」を開いたのは明治初年のことである。
※鈴木藤左衛門は明治26年(1893)、52歳で死去。その後「松本屋」を「須田鉄」が引き継ぐ。

「松本屋」からは、明治期に4人の職人が育った。

この4件が菓子屋横丁の原型である。
※上記4件のうち、現在も菓子屋横丁に残っているのは「森徳」(現在の小江戸茶屋)のみである。

明治以来の菓子屋横丁各店についてその系譜をたどってみると、上記原型4件の系統の他合計9系統があり、狭い横丁のなかで次々と増殖していった。発展過程の1923年(大正12年)、関東大震災が発生した。この災害が関東一円の菓子業者に与えた影響は大変大きく、東京の駄菓子製造者がほとんど壊滅して大混乱に陥った。ところが、川越菓子屋横丁にはその被害がほとんどなかったから、駄菓子不足のこの時期、南関東のここ川越菓子屋横丁へと殺到し、未曽有の景気になった。

「昭和十五年度営業収益税申告受付簿 川越商工会」(川越商工会議所 所蔵)によると最終的には、少なくとも60軒が存在していたようである。

(参考) 「表1 第二次世界大戦までの菓子屋横丁」

このような駄菓子の職業共同体が横丁に成立した背景には、多数の業者がそれぞれに特化し、親方と職人、親店と暖簾分けした弟子筋の店との繋がりに大きな弾力性があったからでもあるが、菓子屋横丁の性格を職業共同体としてのみとらえるのは、十分ではない。恐らく、それだけであったならば、明治、大正、昭和、平成にいたる100年の歴史の間に起こったいくつかの危機に、共同の崩壊を招くことがなかったか、いささか疑問が残る。

横丁の共同をこのように長く継続させてきた秘密の鍵は、職業共同と二重に重なる血縁共同にある。先述の昭和15年当時の60軒の菓子屋であるが、明治期以後、父から子へと事業展開しているものは20例(うち2例は三代、2例は養子)、兄弟がそれぞれ職人として育ち、菓子屋横丁のなかで一人立ちしたものは7例、娘を横丁の職人と結婚させたのはものは、2例、自分の姉妹が横丁の職人と結婚したものは6例、姉と妹がそれぞれ横丁の職人と結婚したものは3例、そのほか、従兄弟、従兄妹、伯父甥などの姻戚関係がさらに4例見られる。しかも、それらが相互に重なり、師弟関係とも結び付いて、至極濃密な関係になっているのである。職業共同体では、一般に内部に権力関係が生じやすく、経済的な葛藤が生まれやすいのだが、これほど濃密な人間関係のなかでは、生産調整、互いの技術交換、材料や道具などの貸し借りも親戚同志の親しさで気軽にできたであろう。

川越菓子屋横丁、それは地域の市場性に応じて形成された職業共同体であると同時に、かなりの規模をもつ血縁共同のもとに、大量生産、大量消費時代直前に形成された駄菓子職人の集団であったがゆえに、そのある程度長い生活史を形成することができたものなのではあるまいか。

(参考文献)

「川越菓子屋横丁の形成」
著者 女子栄養大学 文化学研究室  松平 誠 氏
女子栄養大学 栄養科学研究所年報 第4号 別冊
平成8年6月30日発行より抜粋。